YouTube 動画の紹介
秦河勝が漂着した地は、何故、相生湾の南波尺師の浦なのか
動画のSummary
- 室町時代の金春禅竹は明宿集に、秦河勝が相生湾の南波尺師浦に漂着して神になったと書いています。何故、秦河勝が赤穂郡に漂着するのか、その背景には、大和・和泉と矢野庄の繋がりがあるのではないか。
- 秦河勝が初瀬川とそこから生まれた神についての伝説など、川を取り巻く文化的つながりと民間伝承を探ります。
- 会話では、これらの伝説の信憑性、特に秦河勝が赤穂郡に漂着したという創作伝承に関する学術的な意見に言及し、歴史家や哲学者の異なる視点を強調しています。
- 講演者は、明宿集を読みたいと思い、テキストを読みやすくしたバージョンを作成し、現在 Amazon で電子書籍として入手可能となっています。
- この対話は、鎌倉から室町への移行期に、矢野庄、大阪、奈良の間に重要な海上交通のつながりがあった可能性があることを示唆しており、さらなる調査に値する歴史的なコミュニティと貿易ネットワークを示しています。
播磨造船所を空襲したのは英空母の艦載機だった
この動画のSummary
- 山本良樹氏が地元を研究して「記憶遺産・戦争」を出版し、日本史オンライン講座で発表していることを紹介。
- 彼は日本での空襲について、特に相生市がイギリスの空母艦載機による攻撃を受けたと述べ、従来の認識を再考させている。
- 山本氏は、自らの研究成果をまとめた360ページに及ぶ本を出版し、フィールドワークを通じた知見を共有。
- 彼が開発した本には防空壕に関する情報や、戦争中の造船活動が含まれ、戦時の貨物の調達についても触れられている。
- 動画を通じて、興味のある人々に彼の研究や歴史的背景についての理解を深めてもらいたいとのメッセージが強調されている。
元寇(モンゴル戦争・蒙古襲来)と北条時宗の対応
背景と主導者: モンゴル帝国からの国書が届いた1268年、北条時宗が鎌倉幕府の執権になった。朝廷は後嵯峨院政であったが、モンゴルとの戦いの主導権は北条時宗が握ることになった。
モンゴル帝国: モンゴルの歴史的な背景について説明があり、チンギス・ハンによる統一とその後の軍事拡張、特にホラズムとの戦いの残虐性が言及される。ホラズムとの戦いに勝利した後、諸国はモンゴルの実用主義を理解し、モンゴル帝国と戦うよりモンゴル帝国の通商・交易に加わるようになった。
日本への国書: モンゴルの皇帝クビライが日本に送った手紙は、日本との貿易関係を強化したいというものであったが、結果的には日本に無視され、事態が戦争に向かうことになった。
南宋や朝鮮との関係: モンゴルは南宋や朝鮮半島に侵攻した。高麗の武人政権はモンゴルと戦い、高麗滅亡後も三別抄が抵抗を続けた。南宋は長江を防衛線として長期戦を戦った。1273年、朝鮮半島での抵抗運動が集結、長江の防衛線が突破され南宋の滅亡が近づく。元(モンゴル)は、日本遠征に踏み切り、1274年、文永の役が起こる。
元寇と鎌倉幕府: 日本とモンゴル間の戦争は、単なる武力の衝突だけでなく、歴史的な民族関係や日本の内政問題とも絡んでいた。また、鎌倉幕府が武士全体を統率する組織ではないという弱点が露わになった。元との戦いを主導した北条時宗・足立泰盛は、幕府の改革に取り組もうとするが、北条時宗は亡くなり、安達泰盛は霜月騒動で滅亡する。
シャクシャイン戦争と松前藩
1665年頃から静内川の漁業をめぐりメナシクルとシュムクルが対立を深めた。1668年、アイヌ同士の対立は松前藩とアイヌの対立に転化し、1669年、シャクシャインが各地のアイヌに決起を呼び掛けるに至る。その背景には、松前藩の商場知行制とそれによって生じた鮭と米の交換レートの悪化があった。
シャクシャイン戦争の概要:
議論はシャクシャイン戦争の紹介から始まり、最初は和人(日本人入植者)の欺瞞に抵抗し、先住民族アイヌと和人の間の緊張の高まりにつながった英雄としてのシャクシャインの描写を強調しています。
歴史的背景と要因:
会話では紛争の起源を掘り下げ、漁業権やアイヌのさまざまな派閥間の資源管理をめぐる競争に関連する問題に焦点を当て、最終的に和人を巻き込んだ協力と紛争にエスカレートしました。
松前藩の政治的ダイナミクス:
この時期の松前藩の不安定な統治を探り、アイヌの紛争に直接介入することを躊躇した藩の姿勢と、この優柔不断さがアイヌの勢力と和人入植者の両方に及ぼした最終的な影響について説明します。
戦争後の影響:
戦争の余波について、特にアイヌと和人の間での社会的・政治的な再編の観点から議論されています。これには、松前氏によって課された貿易力学の変化と資源管理政策に起因する経済状況に対するアイヌの不満が含まれます。
意義と遺産:
この戦争は、和人の侵略に対するアイヌの抵抗の幅広い歴史の中で位置づけられ、これらのグループ間の将来の関係を形作り、その後の数世紀にわたる継続的な緊張と交渉の基礎を築いた極めて重要な瞬間として強調されています。
寛政元年(1789年)、クナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が起こった。乱の後、藩主・松前道広は家老の蠣崎波響に、夷酋列像』(いしゅうれつぞう)を描かせる。夷酋列像が描かれた頃から幕末にかけて、蝦夷地の松前藩やアイヌになにが起きていたのか。北方史の研究者二人がマニアックな対談で解説します。
この動画は、江戸時代後期の松前藩が描かせ「夷酋列像」に焦点を当て、特にアイヌ民族に関する当時の文化的、政治的動向を強調します。
列像を描いた蠣崎波響は、松前藩に生まれ、画家としても政治家としても知られる著名な人物として紹介されており、その時代における芸術家の二重の役割を反映しています。
この作品自体は、アイヌ民族についての固定観念を永続させ、彼らを誇張し、しばしば見下すような方法で描写しているとして批判されており、歴史的表現がどのようにその時代の偏見を反映し得るのかという疑問を提起しています。
この対話では、アイヌのコミュニティやロシアなどの外国との関わりなど、松前藩の社会的・政治的な複雑さについても取り上げられ、財政の不手際や中央政府からの圧力により藩が最終的に衰退したことが強調されています。
より広い歴史的背景には、植民地主義と統合政策についての議論が含まれ、これらがアイヌに対する現代の認識をどのように形成し、文化的アイデンティティと遺産にどのような影響を与え続けているかを検討します。
摂関政治 なぜ始まり、なぜ終わったのか
藤原道長が政争に勝利するためには、彰子の敦成親王出産が必要であった。摂政の権限は、天皇に由来し、国母を介して、外祖父に委ねられるからである。
摂関政治のこうした構造は、摂関政治の本質が、天皇家が嫡系に皇位継承するための補助機関だからである。
皇位の嫡系継承にとって、皇位継承者が幼い場合にどのようにして繋ぐかが問題であった。この問題は、母親である皇后が皇位に就くことによって解決された。神功皇后や持統天皇がそれにあたる。
平安時代に入り、檀林皇后が皇位継承者を産む女性を皇族ではなく藤原氏に求めたことによって、国母は皇位に就くことができなくなった。そこで、国母はその父に政務を委ね、摂政とした。こうして、摂関政治が始まる。
なので、藤原道長の勝利には、彰子が国母になることが不可欠であった。
摂関政治によって、皇位継承は安定し、政争は藤原氏のなかに転嫁された。藤原氏のなかでの争いに勝利した藤原道長は、国母の地位を道長家で独占しようとした。つまり、摂関家を作ろうとしたのである。
しかし、道長の試みは挫折し、白河上皇が摂政と外戚を分離することによって、摂関家が成立した。もっとも、外戚と分離された摂政は単なる地位にすぎなかったが。
摂関政治の制度と役割:
皇后は歴史的にオオキサキを受け継ぐ職で、天皇を支える特別な位置付けを持ち、その権限や役割が平安時代にかけて重要視されていた。皇后は主に皇族の娘から選ばれていたが、平安時代になると、最も有力な貴族の娘が皇后(中宮)になるように変わった。
貴族社会の仕組み:
貴族社会は位階制度に基づき、三位以上が貴族とされ、上級貴族の子供たちは特別な推薦枠を持って出世しやすく、血縁関係が地位に影響を与える重要な要素であるとされる。
天皇と貴族の関係:
天皇の権限はオールマイティである反面、貴族の合意を必要とした。天皇の独自の決定は貴族からの反発を引き起こすこともあった。例えば、三条天皇の皇后問題は貴族社会の反発が強かった。
家族制度の堅固化:
平安時代、貴族社会ではイエの重要性が増した。特に子供たちの地位が父親の功績に依存するため、家系としての存続が重視されたことが見受けられる。不倫に関する規範も発展し、家族の名誉や立場を守るための意識が芽生えた。
摂関政治の変遷
藤原良房から藤原道長までの摂関政治における権力闘争が詳細に描かれ、特に皇位継承の重要性が強調されている。
皇位継承
文徳天皇から清和天皇へと交代する一連の出来事が述べられ、清和天皇が幼帝として即位したため、摂政に政治が委任されるようになった背景が示されている。
藤原家の権力獲得
藤原氏とその関連する貴族たちの間での結婚や子供の誕生が、政治的な権力闘争の鍵となり、女系相続が重視される様子が伝えられている。
道長の政治戦略
藤原道長の台頭とその戦略、娘を次々と入内させ、他の藤原家から入内した后たちとの皇子誕生争いに勝利して権力を強化しようとする様子が描写されている。
摂関政治の終焉
道長は独り勝ちと近い勝利を収める一方で、道長のイエが后を独占したために藤原氏を外戚とする皇子が誕生せず、結果的に藤原家の摂関政治の終焉を招いたとの分析がなされている。