YouTube 動画の紹介

2023-12-14 11:12:00

矢野荘の荘園鎮守

 矢野荘は、秦氏が開発した久富保が基にして設立された領域型荘園です。王家領荘園から東寺領荘園になったので、東寺百合文書に史料が残りました。荘園関係の書籍にたびたび取り上げられています。

 白河天皇の時代、秦河勝が久富保を開発し、播磨守藤原顕季に寄進しました。顕季の孫娘美福門院は鳥羽上皇の皇后になり、鳥羽上皇によって王家領矢野荘が立てられます。矢野荘は八条院領として王家に伝えられ、大覚寺統の所領になりました。鎌倉時代後期、地頭と領家が下地中分し、後宇多上皇が領家方を東寺に寄進しました。

  矢野荘の特徴は、神社や寺院の多様性と豊富さにあります。矢野荘には、古代から中世にかけて、秦河勝を祀る大避神社、王家領矢野荘の若狭野天満宮、地頭海老名氏が鎌倉から勧請した那波八幡宮などの神々が重層的に祀られました。秦河勝を偲んで創建された山岳寺院の三濃山求福教寺があります。この寺院は、日本の古来の神仏習合の姿を残しています。

  矢野荘には、秦河勝が空船に乗って大避岬に漂着して神になったという伝承があります。秦河勝が赤穂郡にやってきたという史実はありませんが、室町時代の能の秘伝書、金春禅竹の「明宿集」に書かれています。秦河勝は神が人間の姿で現れた化生の人で、芸能の神でもあります。矢野荘の矢野は、秦河勝が鷹取峠から矢を射た伝承に由来しています。

  鎌倉時代になると、地頭海老名氏が矢野荘にやってきます。海老名氏は矢野荘浦分の大島城を拠点にし、鎌倉の鶴岡八幡宮と江の島弁天社を勧請して、大島城の南北におきました。このように矢野荘には、秦河勝を祀る大避神社、菅原道真を祭神とする若狭野天満宮、鎌倉から勧請された那波八幡宮が重層的に存在し、中世には荘園鎮守として信仰されました。

 

 

2023-12-12 22:15:00

荘園都市あいおい矢野荘

トップページの「荘園都市あいおい矢野荘」を使った講演をしました。その講演をもとにしてライブ動画を作ってみました

 

 

ライブ動画は長いので、分割してテーマごとの動画にしました。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023-12-11 20:12:00

あいおい矢野荘の秦河勝伝承 秦河勝は赤穂郡にやってきたのか

秦河勝は聖徳太子の部下でした。秦河勝は人間の姿をした神であり、役目を終えた後、空船に乗って西へ流れていきました。空舟は赤穂郡那波の大避岬に漂着し、秦河勝は神に戻りました。この伝承は、金春禅竹の明宿集に記されています。大避岬はペーロン城の駐車場になっていますが、秦河勝が神になったとされるパワースポットであることは知られていません。矢野荘には、秦河勝を祀る大避神社が点在しており、三濃山には求福教寺があります。また、矢野という地名は秦河勝が矢を射たことに由来します。史実として秦河勝が赤穂郡に来たことはありません。しかし、赤穂郡には秦河勝の創作伝承が多くあり、秦氏と赤穂郡の深い関わりを示しています。

この動画は、秦河勝と矢野荘の歴史的な関係について、地図や写真を交えて説明しています。

矢野荘の概要

矢野荘は鳥羽上皇が作った荘園で、王家領から東寺領になりました。矢野荘の名前は、秦河勝が矢を射たことに由来します。

秦河勝の伝承

秦河勝は聖徳太子の部下で、仏教を広めるために活動したとされる人物です。河勝は神が人間の姿で現れる化生の人で、役目を終えた後、空船に乗って西へ流れていきました。空船は播磨国矢野荘にある大避岬に漂着し、秦河勝は化して神になります。

大崎神社とペーロン城

矢野荘には、秦河勝を祀る大避神社が点在しており、秦内麻呂が河勝を偲んで創建した求福教寺があります。大避岬は、現在、ペーロン城になっています。ペーロン城の駐車場は、秦河勝が神になったとされるパワースポットですが、地元の人にもほとんど知られていません。

 

2023-12-07 19:58:00

相生市 観光客は来ないが、研究者は「日本史の宝石箱」と呼ぶ荘園都市

矢野荘は、東寺百合文書という貴重な史料が残っていることで、中世の荘園研究の聖地とされています。しかし、観光客はほとんど訪れず、観光ガイドブックもありません。この動画は、矢野荘の歴史や文化、見どころを説明しています。荘園の時代であった中世日本を楽しみたい人には、あいおい矢野荘への旅をお薦めします。一人や少人数でゆっくり歩いてください。

 

相生市は兵庫県の南西部に位置する小さな町です。中世の日本の歴史に興味があるなら、ぜひ訪れてみてください。相生市には、中世は矢野荘という大きな荘園でした。矢野荘は、東寺百合文書という貴重な史料が残っており、中世の少年研究の聖地とされています。矢野荘は、秦為辰が開発して、藤原顕季に寄進し、鳥羽上皇の皇后美福門院が荘園として成立させました。

 

鎌倉時代末期、下地中分され、領家方が後宇多上皇から東寺に寄進されました。東寺百合文書には、矢野荘の詳細な記録があります。矢野荘北部は中世の面影を残しており、鎌倉時代から室町時代を経て戦国時代までの歴史を感じることができます。荘園鎮守や中世の山城もあります。

 

相生市は、山陽新幹線の駅があり、東京から4時間、京都から1時間ちょっとで行くことができます。観光客はほとんど訪れず、観光ガイドブックもありませんが、それがかえって魅力的なところです。相生市ではディープな日本の中世を歩くことができます。ぜひ一度、あいおい矢野荘に足を運んでみてください。

 

 

 

2023-12-06 23:00:00

紫式部と藤原道長は幼なじみだったか

倉本一宏氏の「紫式部と藤原道長」を秦野裕介先生が解説します。

倉本一宏氏は、NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代考証を担当します。倉本氏は、紫式部と道長の関係や歴史的背景について、一次資料を重視する歴史学者です。ドラマの設定や描写に対して、実証史学の観点から批判的な見方を示し、フィクションと事実の区別を重視します。さらに、紫式部の出生地や家系、道長の家計や政治力、現代物語の成立や影響など、さまざまなトピックについて詳しく説明します。

紫式部と道長が幼馴染みという設定はフィクション

紫式部は一次資料によって実在が確認できるが、本名や恋愛関係は不明

道長は22歳まで東三条第に住んでいて、詮子と親密であった

源氏物語の著述には、道長のバックアップがあった