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2024-10-20 09:17:00

元寇(モンゴル戦争・蒙古襲来)と北条時宗の対応

背景と主導者: モンゴル帝国からの国書が届いた1268年、北条時宗が鎌倉幕府の執権になった。朝廷は後嵯峨院政であったが、モンゴルとの戦いの主導権は北条時宗が握ることになった。

 モンゴル帝国: モンゴルの歴史的な背景について説明があり、チンギス・ハンによる統一とその後の軍事拡張、特にホラズムとの戦いの残虐性が言及される。ホラズムとの戦いに勝利した後、諸国はモンゴルの実用主義を理解し、モンゴル帝国と戦うよりモンゴル帝国の通商・交易に加わるようになった。

日本への国書: モンゴルの皇帝クビライが日本に送った手紙は、日本との貿易関係を強化したいというものであったが、結果的には日本に無視され、事態が戦争に向かうことになった。

南宋や朝鮮との関係: モンゴルは南宋や朝鮮半島に侵攻した。高麗の武人政権はモンゴルと戦い、高麗滅亡後も三別抄が抵抗を続けた。南宋は長江を防衛線として長期戦を戦った。1273年、朝鮮半島での抵抗運動が集結、長江の防衛線が突破され南宋の滅亡が近づく。元(モンゴル)は、日本遠征に踏み切り、1274年、文永の役が起こる。

元寇と鎌倉幕府: 日本とモンゴル間の戦争は、単なる武力の衝突だけでなく、歴史的な民族関係や日本の内政問題とも絡んでいた。また、鎌倉幕府が武士全体を統率する組織ではないという弱点が露わになった。元との戦いを主導した北条時宗・足立泰盛は、幕府の改革に取り組もうとするが、北条時宗は亡くなり、安達泰盛は霜月騒動で滅亡する。