旗本浅野家若狭野陣屋
旗本浅野家の若狭野陣屋です。敷地は完全に残り、東南端に札座が現存しています。旗本の陣屋は研究が進んでおらず、保存への取り組みが遅れています。若狭野陣屋は、文化財とか史跡などに指定されておらず、観光スポットにもなっていません。地域の人々の暮らしのなかで活用されながら、今日を迎えました。
若狭野陣屋の北半分に御殿屋敷と家臣が勤める屋敷がありました。明治30年代に屋敷は売却され、昭和に入って須賀神社と薬師堂が移築されました。御殿屋敷跡は、広場の地下にあります。
若狭野陣屋は時代とともに拡張されていき、1822年の藩札(札切手)発行にともない、札座(ふだざ)が建てられました。札座は、明治以降、大山郁夫が少年時代を過ごし、その後、庵寺、集会所として使われてきました。公民館が建設されて、札座は集会所としての役割を終えました。老朽化が進んでいて、このままでは解体を免れません。私たち、浅野陣屋保存ネットワークは、札座を文化財・歴史的建築物として保存し、観光資源として活用する途を模索しています。
旗本浅野家若狭野陣屋は、新幹線相生駅の西4㎞にあります。旗本浅野家の所領は3000石で、現在若狭野町と呼ばれている地域にありました。若狭野は中世王家領矢野荘の中心部です。
若狭野陣屋は、矢野川が若狭野平野から流れ出す地峡を見下ろす小高い丘にあります。
矢野川は地峡を西へ流れて千種川に合流します。ここは交通の要地で、山陽本線・西国街道・国道二号線が通ります。旗本浅野家3000石の所領は、鎌倉時代は王家領矢野荘の中心部でした。室町時代は東寺領矢野荘になり、東寺百合文書に多くの史料が残っています。
旗本浅野家の歴史
豊臣政権で浅野長政の所領は甲府21万石でした。この所領は浅野幸長が継承し、関ヶ原の戦いで東軍に属して和歌山37万石になります。1619年、浅野 長晟は広島に加増転封され42万石になり、このうち5万石を分けて三次藩を作りました。1606年、浅野長政は徳川家康から隠居料として5万石を与えられます。この5万石を浅野長重・浅野長直が受け継ぎ、笠間藩になりました。1645年、赤穂の池田輝興が改易され、浅野長直が城を受け取りに行くと、江戸幕府は浅野長直に赤穂転封を命じます。1649年、浅野長直は、現在の赤穂城を築きました。赤穂城は姫路・岡山・高松の中間を押さえる地にあり、5万石の居城としては大規模な城郭になっています。1651年、徳川家綱が4代将軍になります。徳川家綱は武断政治から文治政治に転換し、城郭建設の時代は終わりました。
浅野長直には養子の浅野長賢、嫡子の浅野長友、娘の鶴姫がいました。鶴姫は大石家に嫁ぎ、長恒と長武を儲けます。浅野長直は浅野長友を二代藩主にするとともに二つの分家を立てることにしました。浅野長直は大石家で生まれた長恒と長武を養子にし、長賢の娘と長武を結婚させます。そして、浅野長恒に赤穂郡の若狭野3000石を与え、浅野長武に赤穂藩の飛び地であった加東郡家原3500石を与えました。浅野長恒と浅野長武は将軍に拝謁し旗本になります。
元禄14年3月14日 (旧暦)(1701年4月21日)、江戸城松之廊下で、浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及びます。浅野内匠頭は切腹しますが吉良上野介にお咎めはなく、元禄15年12月14日 (旧暦)(1703年1月30日)、大石内蔵助など四十七が吉良邸に討ち入りました。赤穂事件で赤穂藩は断絶しますが、分家の若狭野浅野家と家原浅野家は旗本として幕末まで続きました。
浅野赤穂藩の所領赤穂郡は南北に分割され、南半分は森家の赤穂藩に、北半分は天領になります。旗本浅野家の所領は浅野赤穂藩領のなかにあり、統治や年貢収納は赤穂藩が行っていました。しかし、赤穂事件以降、若狭野浅野家は自力で所領統治を行うようになり、若狭野陣屋は拡張されて現在の形になります。
浅野赤穂藩があった時代の若狭野陣屋は小規模なもので、現在の若狭野陣屋の西側の林のなかにありました。赤穂藩断絶後、若狭野陣屋は東に移転しました。画像の白い正方形の位置です。その後、南に拡張が進み、1821年に札座が建設されました。
赤穂藩江戸屋敷にあった文書は、赤穂事件で旗本浅野家に移り、明治維新で若狭野陣屋に運ばれました。この浅野隼人家文書は、現在、龍野歴史文化資料館所蔵になっています。そのなかに、若狭野陣屋の絵図面があります。左が享和年間(1801~1805)、右が明治初年(1868)のものです。右側の図面の下の方に描かれているのが札座です。
旗本浅野家が発行した藩札(札切手)。札元は大坂の天王寺屋で、若狭野陣屋の向かいに天王寺屋から派遣された人たちの屋敷がありました。
郷土史家の小林楓村氏・金田正男氏は「札座には札奉行が勤めていた」と書いています。札座は棟札など建築年代を確定する史料はありませんが、金田正男氏は、札座は藩札が発行された1822年の前年に建てられたのではないかと推定されています。
浅野隼人家文書の一部は、関西大学津田秀夫文庫所蔵になっています(播磨国赤穂郡若狭野・浅野隼人家関係文書)。浅野家江戸屋敷・若狭野陣屋・大坂天王寺屋で交わされた文書で、 2007年、東北大学の荒武賢一朗准教授が論文を発表 「本史料群の存在が明らかになったことによって、これまで研究蓄積が少なかった畿内・近国旗本知行所の研究、および旗本家の財政・年貢米 廻送などの分野に大きな前進がみられるものと自負している」と書いています。
大坂天王寺屋から伝わった文書で、戌年の年貢がどのように売却されたかを示しています。この文書に札座という言葉が見えます。戌年は、1826・1838・1850・1862年です。
上の文書をグラフにしました。江戸時代末期、年貢米は地元で販売されていたことがわかります。
若狭野陣屋の現況
札座の西側に、陣屋の御殿屋敷跡に続く道があります。
札座の西側の道からだんだら坂を登ると低い石垣があります。今は、須賀神社の境内になっていて、鳥居があります。
旗本三千石、浅野陣屋跡碑。1942(昭和17)年、浅野家は陣屋敷地の北半分を地域に寄付しました。
御殿屋敷跡には、稲荷神社と須賀神社があります。稲荷神社は旗本浅野家が伏見稲荷を勧請しました。須賀神社は昭和初期に陣屋内に移転してきました。
須賀神社に四十七士の絵馬、稲荷神社に寺坂吉右衛門の義士だるまがあります。寺坂吉右衛門は若狭野で生まれ、足軽でただ一人討ち入りに加わりました。
吉良邸討ち入りの後、四十七士は仮名手本忠臣蔵などで取り上げられますが、幕府の法的には罪人でした。若狭野浅野家と家原浅野家は、浅野内匠頭主従の菩提を密やかに弔い続け、明治政府に主従の赦免を願い出ました。浅野隼人家文書(龍野歴史文化資料館所蔵)の案文(控)です。明治天皇は四十七士の忠義を認め、赤穂浪士は赤穂義士になりました。
若狭野薬師堂も陣屋の敷地内に移築されています。鎌倉時代後期から室町時代前期にかけて、荘園のなかで村が形成されたとき中心になったのが惣堂です。矢野荘北部の村々には、惣堂から続く阿弥陀堂・釈迦堂・毘沙門堂などが一つずつあります。
札座の保存に向けて
2023年3月に撮影した札座。札座は浅野家が所有していますが、現地の管理は私たちが行っています。しかし、老朽化が進み、応急処置に迫られています。特に、向かって右側奥の破風の破損は喫緊の課題です。
ところが 、相生市の文化財保護審議会は「札座は保存する価値はない」と結論づけているため、地元行政の支援を受けることができません。私たちは、あきらめて解体するか、資金を調達して応急処置をするか、決断を迫られています。
1.旗本浅野家が、江戸時代後期に札座として建てた築200年の歴史的建築物である。
2.明治時代には、大正デモクラシーで活躍し「輝ける委員長」と呼ばれた政治学者・政治家大山郁夫が小学生時代に住んでいた。
3.その後、庵寺法界庵になる。法界庵は中世の恩明寺の系譜をひく由緒ある庵寺です。
若狭野村若狭野庵縁起(法界庵)
当村裏山を寺山と呼ぶ。谷を恩明寺谷といふ。口碑によれば、山頂に一宇あり。恩明寺と称し真言宗に属したり。屋敷跡には、本堂及び鐘撞堂の跡、今尚歴然たり。此所を発掘せば、古瓦等を多く出ずといふ。本堂の跡数丁の麓に岩あり。小さき凹所あり。弘法大師の杖の跡なりといふ。開基の年代詳かならず。某日、一人の修験者に装ひたる盗賊、偽って此寺に宿泊し寺僧を殺し寺什を奪ひ去る。之れより後、何人も住む者なし。宜しく風雨に晒されつつありしが、村民其腐朽を慮ひ之を麓に移したり。依て此地を寺所と呼ぶ。其れより庵と称するに至る。斯くして元禄年間真言宗より真宗となり、今より約七十年前(弘化の頃か)暴風のため倒壊したるに依り小庵を再建せり。明治三十年、浅野氏旧札座を購い、三度目に此所に移し今日に至る。
4.戦後、村の集会所となり、私たちが管理するに至るまで、札座は200年の歴史を刻んできた。
武家が建築し、若狭野陣屋のなかに現存している、築200年の建築物は、文化財・歴史的建築物と保存する価値があるると、私たちは考えています。
若狭野陣屋や札座は、相生市内で発行されている観光ガイドには掲載されていません。しかし、兵庫県が発行する観光ガイド等には掲載されています。上は、西播磨ビンテージ建物図鑑若狭野陣屋跡札座です。
兵庫県公式観光サイトHYOGOナビです。若狭野陣屋は、あいたい兵庫お城百選にも選ばれています。
この建物は非公開ですが、私たちがガイドする場合は内部も案内しています。また、文化財保存の研修会の場としても活用していただいています。
連絡先 090-5016-4520 matsumoto@jinnya.net このサイトのお問い合わせ
ヘリテージマネージャー研修会
2023年2月25日、NPO法人兵庫ヘリテージ機構姫路の研修会が若狭野陣屋の札座で行われました。文化財保護の専門家を講師にして、ヘリテージマネージャーが学ぶ研修会です。
文化財の木造建築物をどのように調べるか、文化財保護の専門家が解説しています。文化財保存のスキルを学ぶ場所としては最適の建物だとヘリテージマネージャーの方々は言われます。2024年冬も、ヘリテージマネージャーの研修会を開く準備が進んでいます。
2023年の研修会には、私も参加しました。そのときの様子を動画にしてYouTubeに公開しています。
2023年2月25日、NPO法人兵庫ヘリテージ機構姫路の研修会が、兵庫県相生市の若狭野陣屋の札座で行われました。札座(ふだざ)は、1822年の藩札発行のために建てられました。旗本浅野家の藩札や年貢を扱う役所でした。明治20年代になり、浅野家の当主の知り合いの福本剛作というお医者さん一家がここに住むことになりました。福本家の次男が大正デモクラシーで活躍した大山郁夫です。明治30年代、浅野家が若狭野陣屋を去り、御殿屋敷などは売却されましたが、幸い、札座は地域の庵寺法界庵として現地に残り、戦後は集会所として使われました。この日の研修では、文化財保存の専門家を講師に迎え、札座・住宅・寺院・集会所と改築されながら使用され続けたこの建物の200年を建築学的に学びました。
札座の外観でどこに注目するかを解説していただきました。
札座の内部に入り、柱・天井・床等を調べました。
電子書籍とペーパーバック
若狭野陣屋の札座についての知っていただけるように、電子書籍とペーパーバックを作りました。Amazonで販売しています。前半は若狭野陣屋、後半は中世矢野荘と相生観光ガイドになっています。
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