あいおい矢野荘の歴史
那波の白鷺の鼻にある大避神社です。大避神社は秦河勝を祀るお宮で、赤穂郡(相生市・赤穂市・上郡町)の各地にあります。秦氏が赤穂郡の開発に関わったからです。史実として、秦河勝が赤穂郡に来たことはありませんが、相生市内には秦河勝にまつわる創作伝承が多く伝わっています。
室町時代、金春禅竹が能の秘伝書「明宿集」を著し、秦河勝が那波の白鷺の鼻(大避岬)に漂着し、化して神になったと書いています。
業(ぎょう)ヲ子孫ニ譲リテ、世(よ)ヲ背(そむ)キ、空舟(うつほぶね)ニ乗リ、
西海ニ浮カビ給イシガ、播磨ノ国南波(なは)尺師ノ浦(しゃくしのうら)ニ寄ル
蜑人(あまひと)舟ヲ上ゲテ見ルニ化(け)シテ神トナリ給フ
ある日、秦河勝が鷹取峠から矢を射ると、矢は三濃山まで飛びました。それで、それまで八野が矢野に変わりました。矢が飛んだところは谷になっていて「矢野谷」といいます。三濃山の頂上から南を見ますと、相生湾が見え、矢野荘が一つのまとまった地域であると実感できます。
三濃山の山頂にある求福教寺。864年、赤穂郡司秦内麻呂が秦河勝を偲んで創建しました。中央に観音堂、左に弁天社、右に大避神社があり、本地垂迹による神仏習合になっています。日本は飛鳥時代から江戸時代まで神仏習合でしたが、明治政府が神仏分離を強行しました。しかし、求福教寺は日本の伝統的なありかたを伝えています。
求福教寺の鬼門を守る山王権現。山王権現は比叡山延暦寺の守護神で、求福教寺が天台であったことを示しています。鎌倉時代後期から室町時代にかけて三濃山は東寺領になり、求福教寺は真言に変わったのではないかと考えられています。平安時代に創建され、東寺百合文書に三野寺として記されている求福教寺は、江戸時代に三濃山村のお寺になります。1970年頃、三濃山村は廃村となり寺は荒れ果ててしまいました。しかし、大阪の篤志家が求福教寺を再興して現在に至っています。
三濃山への登り口にある犬塚。中世の五輪塔で、求福教寺に同じ大きさの五輪塔があります。秦河勝が三濃山で狩りをしたとき、大蛇が河勝を狙いました。河勝のお供の犬は大蛇と戦い、犬も蛇も生命を落とします。河勝は彼らのために弓を折って卒塔婆を立ててやりました。そうしたことから、犬塚のある辺りを三本卒塔婆と呼びます。登山口の上下にある二つの相似形の中世の五輪塔、東寺が領主になった時代と符合することから、東寺が建てたものではないかという説があります。
瓜生にある羅漢石仏。三濃山への最短ルートは犬塚からの登り路ですが、この道は今は荒れてしまっていて、瓜生からの登り路が一般的になっています。瓜生の渓谷は周回できるようになっていて、石窟に羅漢石仏と安産杉があります。羅漢石仏は、仏教迫害を逃れて矢野にやってきた恵便・恵聡が刻んだとされています。学問的には、中世の石仏です。
後三条天皇の荘園整理令をきっかけに、院政期に荘園が拡大し、荘園の時代(中世)が始まります。1075年、白河天皇の時、播磨国赤穂郡司の秦為辰(はたのためとき)が相生市南部の再開発を国衙に申請しました。秦為辰は再開発地を「久富保」と名付け、播磨の国司藤原顕季に寄進しました。
秦為辰が開発した久富保は、相生湾に流れる苧谷川と佐方川の流域です。この地域は、後に浦分と呼ばれるようになります。
久富保は藤原顕季から長実を経て孫娘の美福門院に継承されます。鳥羽上皇は美福門院を寵愛し、美福門院が生んだ皇子を近衛天皇に、美福門院を皇后にしました。院政期、王家や摂関家は荘園を増やそうとしていました。なかでも、鳥羽上皇は院の権力を活かして積極的に荘園の新設を進めました。1136年、久富保を荘園にする作業が始まり、1137年、美福門院の荘園として王家領矢野荘が立荘します。
相生市の北半分は、今、矢野・若狭野と呼ばれています。ここは矢野川の流域で、古代から開発が進み条里制の耕地がありました。矢野荘は国衙領であった条里制の地域を取り込み、周囲の山林や海岸を含めた、ほぼ現在の相生市と同じ大きさの荘園として成立しました。このような荘園を領域型荘園といいます。王家領矢野荘の本家となった美福門院は、乳母の伯耆局を領家にし、伯耆局の子孫が領家職を継承しました。美福門院が薨去すると、1167年、伯耆局は美福門院ゆかりの歓喜光院に43町の田畑を寄進して別名にしました、こうして、王家領矢野荘の領家は別名と例名に分かれます。
鳥羽上皇が集積した荘園は、皇女の八条院が相続しました。矢野荘を含む八条院領は200ヵ所を超える荘園群で、王家領荘園の中心になります。八条院領は後鳥羽上皇の皇女春華門院を経て順徳天皇に継承されました。1221年、承久の乱で朝廷は敗北し、八条院領は鎌倉幕府に没収されます。その後、鎌倉幕府は後高倉院政で朝廷を再建し、没収した荘園を返還しました。この時、王家領荘園に新補地頭がおかれ、矢野荘には御家人の海老名氏が地頭として着任します。八条院領は、上図のような経緯をたどって亀山上皇に相続され、大覚寺統の経済的基盤になりました。
上の写真の右側の辺りは、中世は小河川と矢野川に挟まれた中バサミと呼ばれる地域で、王家領矢野荘の政所が置かれていました。
承久の乱の後、相模から御家人の海老名氏が地頭としてやってきました。海老名氏は那波の港を押さえる大島に城を築いて拠点にします。那波の港は矢野荘の年貢の積み出し港で、那波の市が開かれていました。相生湾には大浦という港もあります。海老名氏は「相模生まれ」の「相」と「生」を「大おう」に充てて「相生おう」という地名を作りました。
地頭は年貢を徴収して荘園領主に納めることになっていましたが、各地で領主と地頭のトラブルが頻発しました。その解決策として、荘園を領家方と地頭方に分け、お互いに干渉しないようにする下地中分が始まります。王家領矢野荘も六波羅探題の裁定により、1298年に下地中分が行われました。矢野荘は年貢が半々になるように東西に分割され、東側が地頭方、西側が領家方になります。
1299年、亀山法皇は別名の本家職を南禅寺に寄進し、1313年と1317年に後宇多法皇が例名の本家職を東寺に寄進しました。こうして、王家領矢野荘は、例名の領家方が東寺・地頭方が海老名氏、別名が南禅寺に分割されます。
荘園では神社も統治のための重要な施設でした。分割された矢野荘には5つの荘園鎮守がありました。地頭方浦分の那波八幡神社、地頭方下村の若狭野天満神社、地頭方上村の磐座神社、領家方の大避神社、別名の馬子大明神(宇麻志神社)です。
別名の宇麻志神社。小河は蘇我馬子が亡くなった地という伝承があり、江戸時代までは馬子大明神と呼ばれていました。
例名上村の磐座神社。巨石信仰の系譜をひき、ご神体は神山の天狗岩。境内には坐光石があります。
例名下村の若狭野天満神社。矢野荘の北部(惣荘)の人たちが初詣りをします。
例名領家方の下土井大避神社。秦河勝が土の段に座ったことから、土田宮といいます。鎌倉時代・室町時代に農民たちが講を開いたことが東寺百合文書に出てきます。土一揆の舞台になるなど、中世史研究者には良く知られている神社です。
矢野荘浦分の那波八幡神社。地頭の海老名氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請しました。 浦分の人たちは、ここに初詣りをします。
1317年、後宇多上皇が東寺に矢野荘領家方を寄進し、東寺が矢野荘の経営に乗り出します。1137年に鳥羽上皇の院庁が動いて王家領矢野荘が成立したとき、本家は鳥羽上皇の皇后美福門院でした。美福門院は乳母の伯耆局に領家職を与えます。その後、本家職は美福門院から娘の八条院に譲られ、矢野荘は八条院領として王家に伝えられました。領家職は、伯耆局から孫の藤原隆信に譲られ、子孫に伝わりました。
東寺が荘園経営に乗り出した頃、現地では久富保を開発した秦為辰の子孫と称する寺田法念が荘官(公文職・下司職・大避神社神官)及び重藤名の名主として勢力を誇り、領家の藤原氏が派遣した預所藤原冬綱がいました。
東寺が支配を強めると、寺田法念や藤原冬綱は反発しました。なかでも、寺田法念は武力で東寺に抵抗したため悪党と呼ばれるようになります。鎌倉幕府が滅亡し、建武新政の混乱のなかで東寺と寺田法念が衝突します。東寺は大避殿山に要害を築いて寺田法念を迎え撃ちました。寺田法念と対立していた有力農民たちは東寺に味方して戦い、東寺・農民連合が勝利します。
東寺百合文書の実長の申状です。東寺と寺田法念の戦いから40年が経過しています。この間に室町幕府が成立し、播磨国守護赤松氏が矢野荘に介入するようになりました。東寺の代官祐尊は守護赤松氏と交渉して矢野荘の支配権を確立します。しかし、祐尊の支配強化策は名主や農民と対立し、1377年、百姓が代官罷免を求めて逃散しました(荘家の一揆)。東寺は祐尊を罷免し、百姓の指導者実長をの土地を没収しようとします。このとき、実長が東寺に提出したのがこの申状で、東寺と寺田法念が戦ったとき、実長の父である実円など有力農民たちは東寺側につき「身命を捨て昼夜の合戦」をしたと書いています。
東寺と百姓たちとの対立は続き、1428年には、播磨の土一揆が起こりました。
1970年代から圃場整備が進み、日本の多くの水田で古来からの景観が失われました。矢野荘では、古代からの条里制が残っている区画がそのまま保存されています。条里制のなかを下地中分線が通っていて、研究者の先生方には条里制の残る光景は高く評価されています。しかし、現在では休耕田が増え、条里制の水田で米を作る田は稀になっています。観光地化した棚田の風景と、経済原則に委ねた平地の水田の風景を比較することも、日本史の学びです。
応仁の乱とともに荘園の解体が進み、矢野荘でも東寺への年貢の未進が増えていきます。戦国時代になると、堀切や石垣を持つ山城が築かれるようになりました。下土井城は南斜面に縦堀、北からの尾根には堀切のある山城です。田植えの季節には、下土井城が水面に映ります。
感状山城。 1336年、足利尊氏は新田義貞に敗れ、室津から九州へ逃げました。赤松則祐はこの城で新田義貞軍の追撃をくい止め、足利尊氏から感状をもらったので感状山というと伝えられています。山頂に残る石垣の城は戦国時代のもので、白旗城とともに国史跡に指定されています。
感状山城の石垣。戦国時代、守護代浦上氏が築いたのではないかと推定されています。この城は研究が進んでおらず、堀切がないなど防御施設から考えると中世の寺院跡ではないかという説もあります。
戦国時代になると、矢野荘に浄土真宗の寺院が増えていきます。創立年代は、蓮如の末期から顕如にかけてに集中しています。浄土真宗の寺院の分布は、矢野荘の東部(地頭方)に限られていて、西部(東寺領・南禅寺領)には、浄土真宗の寺院が新設されることはありませんでした(真言から真宗に変更した例が一つあります)。荘園鎮守の氏子の分布や真宗寺院の分布をみますと、私たちは、中世矢野荘の宗教空間の影響のもとに生きていることがわかります。
あいおい矢野荘の歴史(中世)は、ここで終わり、次のページは、あいおい矢野荘の歴史(近世、江戸時代)です。
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前半は、若狭野陣屋の紹介 後半が、あいおい矢野荘のガイドブックになっています。
この動画は137分もあります。時代ごとに10本に分割した動画を作りましたので、そちらも御利用ください。