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摂関政治 なぜ始まり、なぜ終わったのか
藤原道長が政争に勝利するためには、彰子の敦成親王出産が必要であった。摂政の権限は、天皇に由来し、国母を介して、外祖父に委ねられるからである。
摂関政治のこうした構造は、摂関政治の本質が、天皇家が嫡系に皇位継承するための補助機関だからである。
皇位の嫡系継承にとって、皇位継承者が幼い場合にどのようにして繋ぐかが問題であった。この問題は、母親である皇后が皇位に就くことによって解決された。神功皇后や持統天皇がそれにあたる。
平安時代に入り、檀林皇后が皇位継承者を産む女性を皇族ではなく藤原氏に求めたことによって、国母は皇位に就くことができなくなった。そこで、国母はその父に政務を委ね、摂政とした。こうして、摂関政治が始まる。
なので、藤原道長の勝利には、彰子が国母になることが不可欠であった。
摂関政治によって、皇位継承は安定し、政争は藤原氏のなかに転嫁された。藤原氏のなかでの争いに勝利した藤原道長は、国母の地位を道長家で独占しようとした。つまり、摂関家を作ろうとしたのである。
しかし、道長の試みは挫折し、白河上皇が摂政と外戚を分離することによって、摂関家が成立した。もっとも、外戚と分離された摂政は単なる地位にすぎなかったが。
摂関政治の制度と役割:
皇后は歴史的にオオキサキを受け継ぐ職で、天皇を支える特別な位置付けを持ち、その権限や役割が平安時代にかけて重要視されていた。皇后は主に皇族の娘から選ばれていたが、平安時代になると、最も有力な貴族の娘が皇后(中宮)になるように変わった。
貴族社会の仕組み:
貴族社会は位階制度に基づき、三位以上が貴族とされ、上級貴族の子供たちは特別な推薦枠を持って出世しやすく、血縁関係が地位に影響を与える重要な要素であるとされる。
天皇と貴族の関係:
天皇の権限はオールマイティである反面、貴族の合意を必要とした。天皇の独自の決定は貴族からの反発を引き起こすこともあった。例えば、三条天皇の皇后問題は貴族社会の反発が強かった。
家族制度の堅固化:
平安時代、貴族社会ではイエの重要性が増した。特に子供たちの地位が父親の功績に依存するため、家系としての存続が重視されたことが見受けられる。不倫に関する規範も発展し、家族の名誉や立場を守るための意識が芽生えた。
摂関政治の変遷
藤原良房から藤原道長までの摂関政治における権力闘争が詳細に描かれ、特に皇位継承の重要性が強調されている。
皇位継承
文徳天皇から清和天皇へと交代する一連の出来事が述べられ、清和天皇が幼帝として即位したため、摂政に政治が委任されるようになった背景が示されている。
藤原家の権力獲得
藤原氏とその関連する貴族たちの間での結婚や子供の誕生が、政治的な権力闘争の鍵となり、女系相続が重視される様子が伝えられている。
道長の政治戦略
藤原道長の台頭とその戦略、娘を次々と入内させ、他の藤原家から入内した后たちとの皇子誕生争いに勝利して権力を強化しようとする様子が描写されている。
摂関政治の終焉
道長は独り勝ちと近い勝利を収める一方で、道長のイエが后を独占したために藤原氏を外戚とする皇子が誕生せず、結果的に藤原家の摂関政治の終焉を招いたとの分析がなされている。